昭和45年10月19日 朝の御理解



 御理解 第88節
 「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいに  する許ではない。心に辛い悲しいと思ふ時、鏡を立て悪い顔を  人に見せぬやうにして家を治めよと言ふ事である。」

 辛いと思うたり、悲しいと思うたり、又は腹が立ったりとゆう事も言えるでしょう。腹の立つやうな事があったからと言うて、腹の立った顔を見せてはならん。悲しいからと言うて、悲しい顔を見せてはならん。その悲しい顔や怒った顔や、言わば辛い顔をしてからでは、家は治められない。とゆう訳なんです。これは勿論、お嫁に行く時に親が娘に鏡を持たしてやるとゆうのは、只、顔をきれいにするばかりではない。
 そうゆう時に鏡を立てる自分の顔を、なる程辛い顔をしておらんか、腹の立った顔をしてはおらんかと見てみる為に、そして、家を治めていく事の為に持たしてやるのだと、こうゆう訳なんですけれども、これは、娘とゆう事だけではありますまい。信心をさせて頂く者の全てがそうだとゆう。此方の道は、喜びで開けた道じゃから喜びで苦労はさせんと、いつも言わば喜びの表情、いつも喜びの顔をしておる。そこには、苦労はさせんと仰せられる程しのおかげが必ず約束される。
 昨夜のお月次の後のお説教の中に、秋永先生から久留米の<>さんの例をとってお話したんですけれどもね。例えば、秋永先生なんか買うたばかりの立派な自動車がとられたたくさんの商品を自動車の中に入れてあっただけではない。お客さんの大事なものまでその中に入れてあった。そうゆう時に例えば、辛いとか悲しいとか困ったといったやうな顔をしていないとゆう事です。むしろその事に対して御礼が一番先であったとゆう事である。それは、誰だってそんな買うたばかりの自動車をとられたと。
 いわゆる泥棒におうてからニコニコしとる者はおらないだろうけれどもです。その瞬間に私は、鏡を見たのだろうと思うですねぇ。何故その御礼を申し上げたか「盗られまして有り難うございました」じゃないと思うのです。「この事によって分からして頂きました」とゆうのが、私は、御礼だと思いますねぇ。私は、秋永先生の場合なんかそうだったと思うのです。言うなら、パチッと頭を叩かれた。
 「痛い」と言う前に、その瞬間ひらめいたものは、「これによって自分の信心がシャンとする」とか「これによって分からして頂くところが本気で分からせて頂くぞ」とゆう程しに神さまの働きの間違いなさとゆうものを日頃信じる稽古をしておるから、次の瞬間にひらめいたものは、御礼だったと私は思う。そうするとその瞬間もう、これはしもうたねと言う事はいらん。
 私は悪い顔を人に見せてはならんとゆう事は、そうゆう事だと思う、田さんの場合だって同じ事が言えると思う。言わば相手の方に怪我をさせるやうな、言わば事故である。そこで、その瞬間「すいません」とかね「おかげを頂きました」とかゆうそのお例の言葉になってくる。とにかくおかげを頂いたとゆう事がです。大難を小難にお祭り替えを頂いたとゆうやうな事もです。それは、有り難いとその日に、お礼参拝が二回もあったんですからね。
 しかも、夜のお参りはご主人も共々に、それこそ秋永先生のそれじゃないけれども、御礼のお参りでした。人に怪我させといてから有り難い有り難いとそげなこつ言よりや人が馬鹿じゃないかと人が思うぞと主人が言う程の感じであった。けれども、その内容を聞かせて頂くと、ほんにそうだなとゆう事である。とても、なる程、私の不注意がです。私だけではない。佐田一家の者のちょっとその緩んだ心がです。このやうな事によってお気づけを頂いた事だけは、お気付けとして、お詫びをしなければならない。
 これから、緩むやうな事があっちゃならんと、ほぞを固めなければならないが「けれども、お父さん、この事によって、おかげを受けるとゆう事は、とても一人二人じゃありません」と、それにつながっておかげを頂いていく人は・・・・ 私は、昨日、その事をお届けを聞かして頂きながら、「本当に手につけ足につけ、皆がおかげになっていくな」と申しました。
 おかげを頂いて、先方も大変気の毒がられ、怪我も思うたより軽うしてすみ、その時一番初めに佐田さんがお礼お届けにみえた時、佐田さんが言われた事がです。本当に最近、このやうにそれこそ、交通地獄だと。言われる程しに日々、悲惨な事故が起きているけれども、その為にはですねぇ、お互いが怪我させられたら、相手からとるしことらにゃでけんとか、片一方は又、それは、そうじゃろうけれども、あんたも悪いとかと言う出すまい、とそうゆう醜い争いが必ずそれにはついておる。
 それに例えば、怪我させられた者又、させた者がどうもすみません。私が不注意でした。私がとゆうやうなです、雰囲気の中におかげを頂いておるからです。「世の中がこのやうな風になっていったら、交通事故も又、有り難い結果になるだろう」と言うております。その方の隣におられる同じ病室の方は、福島当たりの方らしいですけれども、怪我させられてもう、ひと月になる。けれどももうとにかく、相手が出すまいとゆう事ばかりでですねぇ。随分、問題になっておる。
 ところが隣に入院して来た、佐田さんの怪我させられた相手の方の場合なんか、もう本当に両方がお詫びのしあい、お礼の言いあい それを見てからですねぇ。どうしてそうゆう事になるかと言う事を聞かれた。金光さまの御信心頂いておられる事が分かって、御新米を持って行かれたら、そんな有り難いものなら私にも頂けてもらえんでしょうか。と言うてから、昨日頼まれたと。
 佐田さんが言われるやうに、その方の親戚、横ぞに入院しておられる人の上にまでです。この事のおかげがこのやうに大きく広がっていく。私は、金光さまの御信心のもう本当に心次第でですねぇ。どのやうに素晴らしいおかげにそれが進展していくか、分からないとゆう事です。とても、馬鹿らしゆうして悪い顔どん、だから、分かってくるとされん訳です。クーッとした顔をいつもしておる。勿論それはいけません。なにかがあるとなおさら、又、辛い顔をする。これではね、本当のおかげに進展してゆかんです。
 丁度、事故があってそのお礼のお届けに出て見えた時、私が四時の御祈念につこうとするところであった。だから、四時の御祈念を一緒になさっておられたら、お知らせを受けられた中にね、自分がよろよろっところばれたところを頂かれた。そして、立ち上がってとゆう時には、もう両方の手にもてん程しに誰かがおみやげをことずけてくれたとゆう、お知らせであった。
 なる程、転んだとゆう事は御無礼であった。転んだ事は、自分の不注意であった。私が昨日言うやうに、かむいで頭を打った。「あっ痛い」と言うて、かむいを叩く人がある。それが普通一般なんだ けつまづいた。ここにこげんもんを置いとくけんというて、不足を言う。自分の不注意であった事は、棚に上げてから、ああ痛いよと言うたり、こげなもんをここに置いとくけんでと、ゆうやうなそうゆう事ではなか。
 秋永先生のそれじゃないけれども盗られた次の瞬間には、有り難うございますである。そうゆう事故が起きた瞬間に「ああ、痛いよ」と言うより先に「すみません」とゆうのが先なのである。もうすみませんの次には、なる程、こうゆうお粗末御無礼な事になって相済まんとゆうその次の瞬間には、しかし、これがどげな大きなおかげになるじゃろうかと言うて、胸がふくらむやうな思いをしておられるとゆう事である。
 これは、もう実感なんですよ。私が褒め言葉じゃないのです。とんだ災難だったといったやうな思い方がないのです。いわゆるその事を神さまの御都合、いわゆる神さまの働きであると、信じなければそこが出来ん。そこにね、稽古が必要だとゆう事になります 本当に神さまが教えて下さる<>です。難あって氏べ、難叩有り難うございますである。それがね、辞でいけれる。
 日々そうゆう心がけで過ごしてゆけれる信心をひとつ身につけていかなければならんから、やはり、本気で信心の稽古をしなければ、そうゆう気持ちは、開けてはこないとゆう事。教祖さまは、そこのところを難はおかげと、こうおっしゃっておられます。もう実を言うたら、もう難とゆうものはないのだと。もうそれは、おかげなのだと言うておられる。だから、それが只、教えた言葉だけでなくて私共の心の中に、それが信じられ、そう感じられるところまで、信心の稽古をしておけと言うのである。
 その受け方、その頂き方の例えば、その微妙な働きがです。それこそ、両方の手には持ちきらんごたる大きなおかげになっていくとゆう事実をね。私共は,体験してゆかねばならない。普通でなら、辛い思いをしなければならん事であろう、けれども次の瞬間には笑えておる。次の瞬間には、それこそ、にこやかに有り難いと言うておられる。昨日おとといの、いわゆる佐田さんが事故を起こされた時の御理解がそうですねぇ。「泣き笑いの出来る信心」とゆう事でしたよ。
 それこそ瞬間泣き顔を見せなければおられない。辛い顔をしなければおられない程しの事なんだけれども、次の瞬間には、次に自分の心の中にひらめいてくるものはです。神さまのなされ方に一分一でも間違いのあるはずはない。悪いのはこっちであるとか、又はこれは、お礼と申し上げるべき事であるとか、とゆう本当の事がひらめいてくる。すみませんと出てきたり、有り難うございますとゆう事になってくる。だからもうそこにはなる程辛いけれども有り難いと本当の信心で言う泣き笑いとはそれなんです。
 だから、その信心で言う泣き笑いが出来る時に、その人は、信心の言うなら出来た人となる訳です。だから、私がゆうべのお月次祭でも申しましたやうに、苦しい、だから、お願いをする。お願いをしたらおかげを頂いたとゆう時だけは、にこやかである。広大なおかげを頂いたと言うて、お礼参拝をする。そげなこつじゃでけん。言うなら、盗られたなら盗られたその時にね、御礼が言える信心にならなきゃいけん。
 例えば、泥棒に盗られたと、これは、もう大変な損害を受けたと、お願いをしょたら、それこそ、秋永先生の所じゃないけれども、そっくりそのまま出て来た。それは、広大なおかげを頂いてにこやかではなかった。むしろ、その盗られた時がにこやかにしておった。私はね、そうゆう信心を本当に身につけていかなければいけんと思う。辛いとか、苦しいとか、悲しい時にです。辛い苦しい悲しい顔をしてはならん。
 それでは、家は治らん。苦しいけれども顔で、只ニコニコしとるとゆうのではなくて、本当な事が分かる事によってです。その時に心から相済みませんとか御礼とかが出てくるのだ。日頃、信心の稽古をして、話だけは聞いとりますから、例えば、そうゆう痛い思いをする時に、本当に私の不調方で相済まん事でしたと言うて、言葉では言よるけれどもです。心から本当のお詫びになっていない証拠に表情に出て。
 辛い苦しい顔だけしかしとらん。それも稽古のひとつの過程ではあろうけれどもです。本当にこの事は、私の不調法ではありましたけれども、考えてみると、有り難うして有り難うして神さまのおはからいには、何と御礼の申し上げようもありませんとゆう事になってこなければいけん。そうゆうですね、私は、おかげを頂かせてもらう時に例えば、なる程、難はおかげであるなぁ。難あって喜びだなぁ。
 とゆう御教えがはっきり自分のものになってくる。それは、どうゆう事かと言うとね。そうゆう難のたんびに自分がひとまわりずつ大きくなっていく。それこそ、転んだ事は、まあけつまづいたり、痛い思いを致しましたでしょうけれども、立ち上がる時には、もう持ちきらん程しの神さまからのおみやげを頂いておる。してみると、難も又、有り難い。いや、難を受けるとゆう事。
 それは、難ではないおかげだとゆう事が分かるでしょう。難はおかげ、難あって喜べと言うちゃるけん。こらあ、おかげの元ですがと言うだけじゃいかん。本当に叩難がおかげとして、受けられなければ、難叩喜べなければ、難叩もうそこには、にこやかに次の瞬間には、しておれなければ。だから、信心の薄い者、信心の無い者にはです。ある意味では馬鹿のごと見えるかもしれんですよねぇ。たくさんな物を盗られて、にゃにゃしとるなら、やっぱ馬鹿じゃなかろうかと、思うでしょうねぇ。
 けれどもね、信心とは、そうなんです。私共が日々です。どのやうな中にあっても、辛いとか悲しいとかクーッとした顔じゃなくていつもにこやかにしておられたら、どんなに有り難い事であろうか極楽とゆうのは、たくさんなお金の中にうずくまるやうにしておる事が極楽ではない。本当の極楽とゆうのは、どのやうな中にあってもにこやかにしておれれるとゆう事が極楽だし、頂きましたですねぇ。私共が信心させて頂いて、何を目指すかとゆう事、その極楽なんです。
 どんな場合でもにこやかにしておれる。鏡を立ててホッと。これは、自分の暗い顔とかいやな感じを人に与えるやうな、顔をしておりはせんかと、いつも鏡を見ておるやうな心もちが必要なんです。そしてフッと気づかせて頂いた瞬間、こげな暗い顔をしとる事は、間違っておるんだと。これは、お礼を申しあげねばならん事を自分が苦い思いをしよったなと。自分が次の鏡を見た瞬間に、表情が変わってくる程しのおかげを頂きたい。私は、この八十八節をこの前頂いた時に、八にプラスして又。
 八だとゆう風に御理解皆さんに聞いてもらいました。八とゆうのは、繁盛の意味でしょうねぇ。末広がりの意味でしょう。それにプラスして又、八になる。もうそれこそ、穂に穂が咲いてとゆうやうな事である。今年しゃ満作とゆう訳なんです。穂に穂が咲かせて頂く程しのおかげを頂く為には、八十八節の最後に人に悪い顔を見せてはならん。いや、見せんで済む程しの私にならせて頂くとゆう信心の稽古が出来たら、もう絶対穂に穂が咲く程しのおかげになるでしょうね。
   どうぞ。